気持ちのサンドバッグ

気になったことを調べて、まとめたり意見を書いたりします。あくまで個人によるエッセイなので、事実関係の確認はご自身でお願いします。

「dis」はどこから来るのか?

「disる」という動詞は、もはや若者言葉の代表格と言って過言ではないだろう。

このブログはアカデミックな文章ではないため、平気で一般のウェブサイトやWikipediaを引用させていただく。

ディスる(でぃする) - 日本語俗語辞書

ディスリスペクト - Wikipedia

相手を軽蔑し、批判することをdisるという。これは、人にも物にも使う。長期間続いているアニメシリーズを例にとればわかりやすい。

「今年のシリーズはつまらない」「監督のこんなところが悪い」「脚本家が嫌いだ」
「去年のシリーズはこんなにすごかったのに、今年は全然ダメだ」

というように、特定のシリーズを、しばしば別のシリーズを讃えるために、「disる」。もちろん本当にそのシリーズやスタッフが嫌いだと言う人もいる。だが、その「dis」は、あるいは、それを嫌うエネルギーは一体どこから来ているのだろうか?ここでは、身近な「dis」の例を挙げながら考えていきたいと思う。


学校への「dis」

筆者が学生時代(中学生から大学生まで)に感じていたのは、周りがやたらと学校を批判したがるということだ。例えば、「制服がダサい」という声がよく聞こえた。たしかに、値段の割に破れやすい、壊れやすいと言う実感はあったが、筆者が「ダサい」と思うことはなかった。だが、周りは口々に「ダサい、ダサい」と言っており、「マシ」な第二制服ばかりを着ていた。中には、機能性の低さを口実にセーターの異装を申し出る女子(制服と全く色の違うものだった)も多くいた。私のいた学校の制服が壊れやすかったり、機能性が低かったりしたとしても、それは「ダサい」という視覚的要素に影響するだろうか?おそらく関係ないだろう。

学生食堂(学食)に関しても、「うちの学食はまずい」という人が多くいた。全国の学食の多くは、おそらくケータリング会社が販売しており、販売の効率性や学生からの需要、あるいは栄養バランスをよく考えて作られているはずである。たしかに、大量生産となれば、味が多少大雑把になっても仕方あるまい。だが、学食が吐き気のするような料理を提供するだろうか?誰もが口を揃えてまずいと言えるようなまずさの料理を提供するのは、あまりにも合理性に欠ける。では、なぜ多くの人が口々に制服や学食を批判するのだろうか?


「dis」の物差しはすべての人が使っているわけではない

我々は何を根拠に「dis」っているのだろうか?我々が物事を批判するとき、どこかに物差しがあるはずだ。物差しがなければ、物事の価値を判断することができない。物事を批判したくなるとき、あなたはその物事に対して、嫌悪感を抱いているはずだ。例えば、数学の問題が解けないことで嫌悪感を抱き、数学が嫌いになったり、あるアイドルのファンに嫌悪感を抱き、そのアイドル自体が嫌いになったりする。「dis」の物差しは、嫌悪感だ。だが、こういったケースはないだろうか?

「あの人が言ったことは信用できる。だから、あの人が批判している○○のことは私も嫌いだ。」「あの記事に書かれている批評を見ると快感を覚える。私も、○○が嫌いだ。」「みんなが嫌っているし、私も多分○○が嫌いだ。」

好きな人(記事)が嫌うものを自分も嫌うという行為は、「dis」の物差しを使わないでもできる。周りが嫌っているものを自分も嫌うという場合も同様だ。つまり、我々は自分が不快感を覚えてもいないものを嫌いだと言うことができる。上に挙げた例でも、本人は嫌いではないが、周りに合わせて嫌いということにしたり、本当に嫌いになってしまったりしている可能性がある。いずれにせよ、価値判断を放棄し、社会や有力者に委任するのであれば、よい社会やよい物は出来上がらない。それはみんなの考えるよさではなく、一部の人が考えるよさである。


では、どうやって物差しを使えばいいのだろうか?

普段使っていない物差しをいきなり使うことはおそらくできないだろう。視力検査で、赤地と緑地のどちらが見えやすいかという検査項目があるが、筆者はあの検査を受けるたびに困惑する。見えやすさを判断する物差しを、普段使っていないからだ。「dis」の物差しに関しても同様で、いきなり何が嫌いか、どちらが嫌いか問われても困惑するだろう。自分の物差しを使うための第一歩は、普段自分が嫌いだと思っているものを見つめ直してみることなのかもしれない。

ところで、嫌悪感の正体を突きとめることも重要だ。例に挙げた制服の機能性や壊れやすさはたしかに嫌悪感を抱かせるかもしれないが、ダサいわけではない。あるいは、見た目が良くない学食の配膳は、必ずしも学食の味には結びつかない。なぜ嫌いなのかを探ることで、嫌いなもの自体にも変化をもたらすことができるかもしれないのだ。