気持ちのサンドバッグ

気になったことを調べて、まとめたり意見を書いたりします。あくまで個人によるエッセイなので、事実関係の確認はご自身でお願いします。

宗教に属する人のために柔軟な対応を、というお話

宗教に関わる教育の回避と宗教的配慮の獲得について

ワイドショーはあまり観ないのでわかりませんが、この問題はまだ息が長いようです。信仰にそぐわない仕事を拒否することができず、苦痛を味わったという話。これはどこでも起こりえます。学校教育や企業の研修でも、配慮不足が原因で宗教的な行為が含まれてしまう場合があるのです(例:写経、自然崇拝)。教員や上司・業者が何気無く要求したその行為が、実は信仰に反する行為だったりする。これが我々の身の回りに潜み、信仰の自由を阻んでいる脅威です。

 

これは自分たちを無宗教だと考えている日本人の多くにとっては回避しがたいトラブルであり、起こってしまった場合は事後に対応するしかありません。教育や行事を形作る側は、その人が参加できるようできるだけ配慮をするか、どうしても参加できない人に適切な対応をする必要があります。一方で、特定の宗教を信仰する人も、宗教に無関心な日本で生き抜くために努力をしなければなりません。宗教に関するトラブルは、柔軟な発想で解決する必要があるのです。

 

 

 

宗教に関する配慮の現状:公共機関側の限界

学校(や企業)は2つの問題の板挟みになっています。特定の宗教を信仰する人に配慮が必要であるという問題と、特定の宗教を信仰する人を優遇してはならないという問題です。つまり、日本国憲法に従って宗教的な事情のある生徒に配慮をすると、宗教的中立性を義務付ける日本国憲法に違反するかもしれないのです*1。これに関しては、神戸高専剣道実技拒否事件の最高裁判決で一定の基準が設けられました*2。簡潔に言うと、配慮が宗教的な目的に即していなければ、配慮は憲法違反にならないということです。例えば、ムスリムの女子生徒がスカーフを着用することは、「本校はイスラム教を優遇し、利益を供与しています」ということにはならないはずです。


しかしながら、個別の配慮が難しい現状は変わっていません。同じくイスラム教の例ですが、校内での礼拝を学校側が認めないというケースがあったようです。周りと違うことは他者に迷惑である、集団の和を乱すという前時代的な発想もあり、宗教を信じる人の集団への取り込みは進んでいません。「教育の機会均等の観点から特別扱いすることはできない」というのは、所詮、配慮を面倒くさがっている学校の怠慢でしょう。

 

お祈りも弁当もOK~学校の理解が進む:日経ビジネスオンライン

 

個人主義の国の場合

個人主義の国・アメリカの法律では、公立学校による宗教的行為の禁止と子どもによる宗教的行為の許可が明確に規定されています*3。公立学校の職員が職務として礼拝することはできません(時間外、個人としてなら可能)。しかし、児童・生徒が宗教的行いをすることは許されており、絶妙なバランスで宗教と関わりあうことに成功しています*4


逆にフランスでは、公立学校でイスラム教徒がスカーフを着用することが禁止されています。ライシテと呼ばれるこの政教分離政策は、政教分離の名を借りたムスリムへの抑圧だとして問題視されています*5。ある意味、集団の和を重視する日本にもふさわしいと思えるかもしれませんが、日本の憲法・法律には反するのでこの方針をとるのは難しいでしょう。そもそも、前述の通り、学校は知らず知らずのうちに特定の宗教の価値観を主張しています。ですから、「学校では宗教性を排除しているので、特定の宗教の行為を認めるわけにはいきません」と言うことは難しいはずです。生徒の宗教に対する配慮をすることは回避できないでしょう。

 

発想の転換によるトラブル回避

自分の神に祈る

信者側にとっても、信仰に関するトラブルは避けたいものだと思います。中には、発想の転換によってトラブルを乗り切る信者もいるようです。キリスト教徒が仏式の葬式でイエスに祈るというのが一例です。「仏の加護のあらんこと」を祈るのは、一神教であるキリスト教の信念に反することです。そのため、心の中で仏をキリストに置き換え、合理化を行う人もいるそうです。

 

宗教的な見方を捨て去る

同様の行事にクリスマスがあります。アメリカの公共機関では「メリークリスマス」ではなく「ハッピーホリデーズ」、「クリスマスツリー」ではなく「コミュニティツリー」と言うようになっているというのは有名です。これらはユダヤ教を含む非キリスト教の人々に配慮したものです。一方で、近所でクリスマスパーティがあったり、店舗等でクリスマスならではのサービスがあったりすることも考えられます。メジャーなイベントですから、参加を拒否すると奇異な目で見られたり、社会から孤立したりするかもしれません。


ではキリスト教ではない宗教の人がクリスマスに参加していいのか、という疑問に対してのひとつのレスポンスが、あくまで季節の行事と捉えることです。プレゼントをもらうとかケーキを食べるという動作には宗教的な意味は含まれていません。「クリスマスを祝う」のは難しいですが、それ以外の一般的なクリスマスパーティーの内容であれば、問題ないですよね?


食べ物や行為に意味や祈りが含まれる場合でも、その意味を意識しないことが大切です。恵方巻はただの美味しい海苔巻き、賛美歌はただの歌です。もちろん、行事そのものが根源的に特定の神を崇めるもの(神社での合格祈願など)である場合や教えに反する場合は、やめた方がいいと思います。


このように、自分の神に祈り、自分の神ではない部分を避けることで、自分の宗教に合わない行事に参加することは可能です。学校・社中行事でもこれは同じだと思います。

 

配慮の画一化への懸念

ここでひとつ懸念があります。宗教に理解のない人が、宗教を信じる人の他宗教に対する許容度を誤解する恐れがあるとは考えられないでしょうか? つまり、ある人が「私は◯◯教徒だけれど、××することに耐えられる」と申告した場合に、それがその共同体全体での◯◯教の取り扱いになってしまうかもしれないのです。


このとき、我々が考慮しなければならないのは、信仰は人それぞれであるということです。同じ◯◯教であっても、例えば、宗派で考え方が違うかもしれません。個人の信仰心の強さによっても、他宗教の行いに対する許容度は異なります。◯◯教への対処はこれ、△△派への対処はこれというふうにマニュアル化してしまうと、人権の侵害になりかねません。マニュアルに従って上意下達(top-down)で待遇を決定するのではなく、個人に合わせた柔軟な対応が必要です。

 

悪用への懸念

さらなる懸念として、信仰を偽り、悪用する人が出てくる可能性を考えましょう。宗教上の理由を盾に、あらゆることを拒否できるかもしれないという心配です。しかし、我々はすでに似たようなことをしています。何度も「親戚を死なせて」忌引きを取得している人のことです。葬儀という概念自体は遍く存在し、特定の宗教に限られません。しかし、それ自体はまぎれもない宗教行事です。つまり、親戚の葬式という口実は宗教的理由の捏造に他なりません。


では、宗教的理由で欠席や参加辞退を申し出ている人を嘘つきだと問答無用で断罪してよいでしょうか? よくありませんね。ここで大事なのは、宗教的理由を捏造することは、信仰を欺くことになるということです。我々の言葉で言えば、「バチが当たる」と言えるでしょう。もしかしたら、「やむを得ぬ事情であれば、嘘をつくことは許される」という信仰もあるかもしれませんが、それは「神に免じて」ということだと思います。なにかしらの罰は下るでしょうから、嘘をつく人は覚悟してください。人が罰を下さなくても、何某かの形で報いはきます。つまるところ、宗教的理由を悪用する人にはバチが当たるはずなので、人が裁く必要はありません。

 

学校・企業側の事前防止策

学校や企業側が宗教に関するトラブルを防止するための策を私なりに考えてみました。現場の人間ではないので、実際にはご自身の学校・職場で検討をしてください。

 

宗教中立的な目的

指導や行事には、宗教的な意味を込めないことが大切です。つまり、目的・手段・内容に宗教的な概念を持ち込まない方がよいのです。例えば、自然に関する学習を考えましょう。私が小・中学生だった頃に道徳科で「自然の神秘に思いを馳せなさい」という趣旨の授業があった記憶があります。現在は震災の影響もあり、「自然を畏れなさい」という内容も加わっているかもしれません。


しかし、一部の宗教は自然崇拝を禁じており、自然に神秘や畏れを感じることはそれに当たる可能性があります。そこで、「自然は多様な形態を持ち、その変化が予測不能であることを知る」など、宗教中立的な目標に変更する必要があります。

 

宗教中立的な手段

あるいは、目標は宗教に対して中立的なのに、その実施方法が宗教性を帯びている教育もあります。座禅がその一例です。座禅が集中力の向上に役立ったり、個人の意識を高めたりすることは広く認められていると思います。しかし、それを生徒や社員の教育の手段として用いるのは問題があります。集中力を高めるのであれば、軽作業を長時間行うでもよいわけですし、個人の意識を高めるならば、振り返りワークなどで自己と向き合うのでも構わないはずです。


方法が気に入っているのであれば、その方法を選択肢のひとつとして残すか、自由参加のレクリエーションや課外活動にするのがよいでしょう。あるいは、文化体験の一環として設定することも可能だと思います。観光で座禅を体験することもできますから。ただし、この場合も強制はできないと思います。

 

宗教中立的な内容

余計な内容を含めないことも大切です。登山の際に寺社で祈りを捧げることは、その神社の神あるいは仏に祈ることになりますから、宗教的な意味を帯びています。神を裏切る行為、あるいは神と信じるもの以外に対して祈らさせられるという屈辱になるので、避けた方がよいでしょう。寺社で祈りを捧げるという行為を気に入っている場合は、あくまでオプションにしましょう。


このように、宗教に関するトラブルを避けるためには、宗教中立的になるように配慮する必要があります。宗教に関わる内容をゼロにすることは難しいとは思いますが、最善の努力はすべきです。

 

「願い」や「祈り」に注意

ちなみに、「願い」「祈り」などの言葉は要注意です。使い方によっては勝手に宗教的な意味が込められてしまいます。ですから、それを強制する形にならないように配慮する必要があります。例えば、「この食べ物には××という願いが込められています」までならOKですが、「皆さんもこの食べ物を食べて××を願いましょう」というのは危ないです。前述のように「ただのおいしい食べ物」として召し上がっていただくことも可能ですが、これはあくまで個人の自由な選択のひとつです。その行為をすることが神に対する背徳だと思っている人もいるはずなので、強制はしないでください。

 

表明の強要や暴露はNG

それから、職場における個人の思想・信条への立ち入りはパワハラとみなされます*6。つまり、部下の宗教に関する情報を上司が一方的に聞き出すことは基本的にできません。しかしながら、宗教上の理由で業務に支障が出る場合、そういう人の採用は控えたいところでしょう。もちろん、宗教上の理由で不採用にすることはできませんから、受験者の方から諦めてもらうことが必要になります。したがって、雇用主は宗教に関わるかもしれない業務の内容を公表するなど、ミスマッチを防止するための工夫をしなければなりません*7。後から気づいた場合は、「知りながら」その会社に入ったその人の責任です。

 

まとめ

学校・社員教育における宗教に関するトラブルは柔軟な発想で乗り切りましょう。そもそも宗教に関するトラブルが起きないよう、教育の内容を宗教に対して中立にすることが大切です。少しでも宗教に関わりそうな内容があれば、変更するのがよいでしょう。伝統にとらわれず、多様性が重視される現代にあったやり方に変えることが求められているのです。受験者に業務や研修(授業)に関する情報を開示して、事前に自分にはできないと認識させることもトラブルの防止につながります。


一方で、生徒・社員自身も、柔軟な発想で問題を切り抜けていく必要があります。信仰に反しない範囲で教育や行事に参加することも時には必要です。宗教的意味が込められていない部分であれば参加できるかもしれません。もちろん、学校・企業側も柔軟に対応していくべきです。世知辛い世の中ですが、皆がよりよく生きるために、できる限りの努力をしていきましょう。