グループを定義することは人の可能性を狭める
さまざまに定義される日本人
このイシグロ氏に対して、日本人として扱うか、イギリス人として扱うかがネット上で話題になっていた。
私としては、イシグロ氏は大和民族であり、日本を敬愛してはいるが、それを「日本国」という国家の功績として扱うのには違和感がある。
そもそも、「何人であるか」というのは。国籍や血筋、言語の訛りや行動など、様々な要因によって決定される。したがって、イシグロ氏を日本人だとすることはできる。
でも、イシグロ氏の国籍はイギリスなので、「日本国民」とはいえない。
だから、日本国民が今年、ノーベル賞をとれなかった事実は認めざるを得ない。いま、日本国の衰退が懸念されている。
いずれにしても、ひとつの尺度を使って人を定義しようとする行為は、今の時代に相応しくない。そうではなくて、あらゆる存在を許すことはできないのだろうか?
「定義違反」を叩く人々
例えば、あるグループの定義に当てはまらない人をバッシングする人は後をたたない。「正しい◯◯像」を追求し、それに当てはまらない人を叩くのだ。
ここで、いくつかの例を挙げてみよう。
弱い立場の人に弱さを求める
例:「貧乏なのにコンサートに行くのはおかしい」
貧乏人は質素な生活をしなければならず、贅沢をしてはいけないかのような物言い。その上で、「あの人は貧乏じゃないのに、貧乏なふりをしている」とまで決めつける人もいる。
実際のところ、他者に自分の願望を押し付ける行為は日常生活のいたるところで行われている。人はその対象を見下していて、「◯◯のくせに」と思っている。
「妊婦のくせに、電車に乗るな」というのもひとつの例だ。あれも、弱い立場にある人に萎縮することを強要しているようなものである。
「定義」に反する見ず知らずの人を叩く
例:「白杖をついているのにスマホを使っている。詐欺ではないか?」
視覚障害には全盲以外にも、視野が欠けている人や弱視の人もいる。また、スマホには視覚障害者をサポートする機能もある。
だから、「スマホが使える=視覚障害が全くない」というわけではない。
それを知らなかったなら、ある程度は仕方ないのかもしれないが、見ず知らずの人に因縁をつけたり、厳しく指摘したりするのは、やりすぎだ。
「特徴から逆算」はできない
日本人・外国人に関しても、(実際には幅広い捉え方がある)日本人らしさ・外国人らしさをいくつかに限定し、その定義に合うか合わないかで恣意的に分類する。
もちろん、大きな枠に当てはめることで、大まかに特徴をつかむことが可能だ。だが、特徴から判断して枠に当てはめる場合、それは100%正しいとは言えない。
自己申告を無視する人々
アイデンティティに関する自己申告は、無視されたり、軽視されることがある。例えば、再三にわたって配慮を求めても、(ときに「平等」の観点から)それを無視する人がいる。
「知らなかった」「それほど深刻だと思っていなかった」という人もいるかもしれないが、本人にとって極めて深刻な事態になる可能性も否定できない。
求めることと別の対応をする
例:アレルギーの子どもにアレルゲンを食べさせる
アイデンティティの自己申告を無視する行為の例としては、アレルギー物質を無理やり摂取させる行為が挙げられる。
もちろん、「軽度のアレルギーなので、少しであれば大丈夫」という患者もいるかもしれない。だが、中には食わず嫌いと混同していたり、治ると思っている人もいるようだ。
少量であれば食べられるというのも、全員ではないし、個人によって食べられる量が異なる。
配慮すべき程度や内容が個人個人で異なるのに、ラベルを貼って一律の対応をして……何か事故が起きれば、責任を取るのは自分だ。
嫌な人は仲間だと認めない
例:問題を起こした人をグループの枠から外す
あるグループに属することを公表している人に問題があるときに、その人がグループの一員であることを認めないというケースも考えられる。
例えば、LGBTのいずれかに属する人が何か事件を起こしたとしよう。
そのとき、糾弾されるべきは不祥事の内容であるはずなのに、なぜかその人がLGBTであることすらも否定される場合がある。
たしかに、自分のグループの正当性を主張する上で、その構成員が不祥事を起こしたことは汚点になりうる。
しかし、その人を枠から外すことは、かえってそのグループのイメージを悪くするのではないだろうか?
ちなみに、某過激派組織では、テロ事件が起こるたびに、その犯人を組織の一員と認定するという真逆のことをやっている。
「多様性」や「寛容」を主張する人間が排除をするというのは、いかがなものか?
客観的視点からは配慮できない
そもそも、個人の属性は、専門家でもない限り、その属性を持っている人の主観によってしか、正確な理解はできない。
個人によって、考え方や求める配慮などに細かな違いが出るので、客観的な観点からひとつの統一した考え方や配慮をすることは難しいはずだ。
例えば、友達と店に入るとき「あの人はコーヒーが好きそうだ」と思って勝手にコーヒーを注文したら、実はその人はコーヒーが苦手だったということはないだろうか?
他人の好みを100%正確に推測することは難しい。コーヒーが好きというのは所詮、周囲が期待していることにすぎず、事実ではない。
同様に、世間から見た東大生と東大生自身から見た東大生もきっと違う。東大生の中には、テレビなどの東大生特集に辟易している人もいるだろう。
このように、世間の認識と本人の認識には隔たりがある。他人に対して期待することは、その人が望んでいることとは限らない。
枠ではなく個人の特徴として
ある属性のことを想っても、その属性を持つ人それぞれにとっての最適解であるとは限らない。その人の属性ではなくて、その人自身と向き合う必要がある。
そこで、「あるグループの中のひとり」と捉えるのではなく、「ひとりの人間の中にあらゆる可能性が秘められている」と考えるのはどうだろうか?
例えば、優しい男性も力強い男性も、男性という属性のひとつの可能性である。
白いご飯が好きな日本人、うどんやそばが好きな日本人、あんぱんが好きな日本人、どれも日本人でよいではないか。
いろいろな日本人の定義をすべて満たすのではなく、そのどれかを満たしていれば日本人として認めよう。(すべてを満たすことはおそらく不可能だ。)
できることを受け入れる
属性は不可能性を決めると同時に、可能性も示している。
例えば、ベジタリアンの人は肉を食べることができないという不可能性を持っているが、同時に、動物に優しくできる可能性も秘めている。
そのため、属性によって何かできないことがあっても、だからと言って、「何もできない弱い存在」と断定することはできない。
もちろん、ぜんそく持ちのフィギュアスケーターのように、まったく別の才能を持っているかもしれないし、ほかの人より優れているかもしれない。
何かひとつができないからといって、すべてができない無能な存在と見なすのはよくない。他人ができないことを非難するのではなく、できることを受け入れるべきだ。
可能性の物語
ところで、人間のさまざまな可能性をテーマにしたゲームをご存じだろうか?
「スクールガールストライカーズ」は、無数の平行世界に「もしもの自分」がいるという世界観のライトノベル風RPGである。
つまり、登場人物が無限の可能性を秘めているという設定だ。
スクールガールストライカーズ 【スクスト】 | SQUARE ENIX
その「もしもの自分」のひとりが、リズムゲーム「スクールガールストライカーズ トゥインクルメロディーズ」でアイドル活動をしている少女たちである。
不可能性を強調して人間の可能性を狭めるよりも、人間の可能性が無限大であることを信じたほうが、人は救われるのではないだろうか?
あなたがたがアイドルになれる可能性を、私は否定しない。