生徒の価値を決める服
女性の価値はブランドバッグで決まるという内容のツイートに対抗し、女性たちが個性豊かなバッグの写真を投稿するという「祭り」が話題になった。
女性に限らず、装身具で人の価値を決める人は多くいる。
男性の腕時計などもそうだ。
なぜ自分の身に付けるものを他人が決めなければならないのか?
なんなら学校の制服もそうだ。
制服なんて今の時代に必要あるのだろうか?
あれだって生徒を抑圧していると思う。
そこで、この記事では、制服とはなんだったのかを考えながら、今後制服をどうするべきか考えたい。
制服の役割
地域と学校の構成員の証
そもそも、制服はどんな役割を持っているだろうか?
制服は学校全体を表すものであり、それを着た生徒は地域から学校の構成員だとみなされる。
それには生徒の安全を守る正の側面と生徒を束縛する負の側面がある。
どの学校の生徒かがわかるので、生徒が問題に巻き込まれても学校に連絡が行く。
その反面、制服は生徒の個性を否定し、◯◯学校の男子生徒・女子生徒というレッテルを貼る。
生徒は◯◯学校の制服を着て、「◯◯学校の生徒にふさわしい行動」を強制される。
1年のほとんどを過ごす学校において、自分に合う服を着られない。
寒くても、性的被害に遭っても、我慢しなければならなかった。
制服は本当に生徒を守っているのだろうか?
実際には危険にさらしているのではないか?
生徒が悪さをできないようにして、悪い評判から学校を守りたいだけではないのか?
地域社会から全世界へ
制服を知っているのが地域社会だけであればよかった。
今や、制服は学校のウェブサイトに掲載されていて、画像検索をすればどこの制服かすぐにわかる。
地域社会だけでなく、全世界とつながるようになってしまったのだ。
学校がわかる制服はストーカーに餌を与えているようなものである。
最近では、制服を着ている写真をネット上にアップしてはいけないという学校もあるそうだ。
もはや制服はプライバシーなのである。
「生徒は制服を着る」
女子用のズボンの導入
ところで、学校制服に女子用のズボンが導入されることがたびたび話題になる。
その背景にあるのは、トランスジェンダーだけではない。
性自認は女性でも、ズボンの方が心地がよい人
スカートは足元が寒いという人
盗撮防止のためにズボンを履きたい人
もいる。
単純に、服装の選択肢としてズボンが追加されたというのが適切だろう。
もはや「男子はズボン」「女子はスカート」という雑な性別の区分は通用しない。
そもそも、男子と女子で体の形状に関わる部分以外のデザインを分ける意味はあるのだろうか?
「生徒は制服を着る」
それでよい気がする。
男子・女子の区分は不要
男子制服・女子制服というラベルをなくすことにジェンダー的な意味がないかといえば、ウソになる。
学校における性差をなくすことも大切だ。
男子・女子ではなく、生徒として一律に扱う。
男女を分ける意味がない分野においては、そうするべきだ。
男子と女子で扱いを等しくするのではなく、男女を区別しないことが重要である*1。
校則においては、男女別のドレスコードを廃止し、男女共通にする。
ふさわしくないものは削除し、男女のどちらにも通じることは男子・女子という主語を廃する。
例えば、「男子のみ長髪禁止」は衛生状況が改善した現代には不要だ。
ズボンは女子にも導入されるので、「男子の腰パン禁止」ではなく、単純に「腰パン禁止」とする。
制服に限らず、身体的な性差に関わらない部分では、ルールの性差をなくすべきだ。
誰かのために服を着ない社会
生徒が自由に服を着るためにも、他人のために服を着るという風潮をなくしていく必要がある。
相手が自分のために服を着ているという誤認
生徒が自由に服を着られない理由のひとつに、性犯罪やセクハラがある。
そうした犯罪の根底にあると考えられるのが、「相手が自分のために存在している」という認知の歪みだ。
その認知の歪みがなくなれば、苦しむ人は減るものと思われる。
服で言えば、「短いスカートを履いているなんて、痴漢してくれと言わんばかりだ」という不届き者の言い訳をよく聞く。
その女子高生はその不届き者のために存在しているのではない。
その勘違い野郎のためにスカートを履いているのではない。
彼女は自分のためにスカートを履いているはずなのだ。
そういう勘違いがなくなり、自分のために服が着られるようになれば、生徒たちは抑圧から解放されるのではないだろうか?
学校のために服を着ない
もちろん、学校のために制服を着ることもやめるべきだ。
学校のために服を着ることは生徒を抑圧する。
すでに述べたように、現代において制服はどちらかと言えば危険だ。
それに、教育を名目にした校則が、教育に悪いというケースも散見される。
生まれつき黒髪でない人が、染髪禁止を名目に黒髪に染めさせられるという歪みがその典型例である。
制服を着させるための前提は崩れており、もはや制服を廃止したほうがよい気すらしてくる。
いずれにしても、生徒を危険や抑圧から解放するため、他人のために服を着させるのをやめるべきだ。
さまざまな服装
解決策として、次の3つの案を挙げたい。
選べる制服
千葉県の学校が男女の括りを廃した「選べる制服」を導入したことが話題になっている。
われわれは男子はネクタイにズボン、女子はリボンにスカートというステレオタイプから解放されるのだ。
反面、選べると言えどもバリエーションに限界があり、個性を表現できるか疑問が残る。
また、ステレオタイプをなくすためには、生徒および保護者の価値観を変えねばならない。
特に男子がリボンやスカートを選べることは、有名無実化する可能性が高い*2。
男女共通の制服
ネクタイにズボンという男女共通のスタイルも考えられる。
これには、女子がスカートという抑圧から解放されるというメリットがある。
一方で、女性としてスカートを履きたい人は、ジェンダーが表現できない。
男女の区別をなくすというのは学校側の話である。
生徒自身は自分のジェンダーを表現してもよいのに、男女共通制服ではそれができない。
私服登校
私服は自由に服を着られるというメリットがあるが、服装に貧富の差が表れてしまう*3。
修学旅行の私服で華美なものを避けるというのも、全体主義的な意味だけでなく、貧富の差を避ける目的があるのだ。
それこそ、自分のために服を着るという精神のもと、服装で相手を評価しないようにしたい。
支配ではなく育成
教育は人を育むためのものであり、支配するためにあるのではない。
理想の子ども像を押し付け、子どもを抑圧するのはやめるべきだ。
生徒が気持ちよく学業に取り組めるよう、今一度制服やドレスコードのあり方を見直してほしい。