ヘイトスピーチ発覚の作者に残された道
アニメ化が決定していた小説の作者が過去にTwitter上でヘイトスピーチをしていたとして、小説が急遽、出荷を停止。
アニメ化も立ち消えとなった。
小説に日中戦争・太平洋戦争・第二次世界大戦での大日本帝国の蛮行を肯定するような内容があったとの情報もあるが、私は内容を確認できていない。
今回の出版社の対応について、表現の自由、思想・良心の自由、出版の自由の侵害ではないかという誤解もあるようだ。
そうしたことは断じてない。
なぜなら、憲法とは国を縛るためのものだからだ。
ソーシャルメディアで本名垢が注意すべきこと - 気持ちのサンドバッグ
シャルリー・エブド襲撃事件と表現の自由
ここで想定されるツッコミは、シャルリー・エブド襲撃事件が表現の自由への挑戦とされたということである。
でも、あれは自由な表現が武力によるテロ行為でねじ伏せられたという問題だ。
テロリストによる脅迫はフランス全体、ひいては世界全体を恐怖に陥れた。
不愉快な表現をすれば命を奪うという過激主義の、表現の自由への脅迫が問題視されたのだ。
今回の小説がテロ組織の脅迫、あるいは武力行使によって出版停止を余儀無くされたのであれば、話は別だ。
でも、今のところそういう情報はないので、ビジネス的な損得勘定で出版が停止されたと言わざるを得ない。
国の規制に抵抗する出版社
一方で、多くの出版社には表現の自由を守ろうという意志がある。
そうでなければ、本や雑誌は萎縮したつまらないものになってしまう。
例えば、総理大臣や国務大臣による一部新聞社への非難はたびたびネット上で物議を醸している。
その非難を受けて大臣のご機嫌とりを始めたら、それは自分から報道の自由を放棄するようなものだ。
政府と報道機関の対立があるからこそ、国民に有益な情報が報道される。
野心的な表現をする出版社とそれを規制しようとする政府のつばぜり合いがあってこそ、出版物は面白くなるのだ。
自由に出版する・しない出版社
出版社は自由に本を出版する主体である。
市場にすべての漁師の魚を売る義務がないのと同様、出版社にもすべての小説家の小説を売る義務はない。
市場はいきのよい魚を売るし、出版社は面白い小説を売る。
だが、仮にその魚に水銀などの毒が含まれていた場合、どんなに大きい魚であっても売り物にはならない。
正当な理由で市場から排除する。
あの小説も売り物にならないと考え、出荷を停止したのだろう。
表現の自由への挑戦に屈したわけではない。
毒まみれの魚が市場に並んでいたら、消費者だって困るし、市場の看板にも傷がつく。
出版社は表現の自由を脅かす存在に抵抗する責任を帯びている。
シャルリー・エブド襲撃事件はテロリストによる脅迫であり、商業的な理由による出荷停止とは違う。
出版社も売り物にならない小説は売らない。
著者には別の道が残されている
今回出荷を停止された小説の著者は、表現の自由を断たれたわけではない。
彼を支持する出版社があるかもしれないし、自費出版という手もある。
例えば、Amazon Kindleにはセルフ出版の制度がある。
そうした制度を使えば、彼は小説を出版できる。
渦中のpixivにもクリエイターを支援する仕組みがある。
だから、表現の自由、思想・良心の自由が否定されたという考え方は誤りだ。