閉ざされた出口……終わりはどこだ?
数あるポテトチップスの銘柄の中に、他にはない洋風の味を展開し、人気を集めているものがある。
プリングルスだ。
プリングルスの特徴は、厚紙で作られた筒の中にカーブのついたポテトチップスが重ねて入れられていることである。
その独特のパッケージは、袋入りが主流の日本のポテトチップス市場で独自性を発揮している。
一方で、パッケージを構成する素材の数が多すぎるため、捨てづらいという人も多い。
筒の大部分は紙であり、一般的に燃えるゴミなのだが、底はスチール製(燃えないゴミ)である。これでは捨てられないではないか!
大丈夫。
プリングルスは公式サイトで捨て方を公開している。
筒の構造は手で分解できるとのことだ。
(業者側が消費者に歩み寄ってパッケージを変えればいいのにと思うかもしれないが、プリングルスは譲らないらしい。)
このように、構造や構成する物質が複雑なものは、捨てるのに手間取ってしまう。
捨てようか悩んでいるうちにそれが溜まっていって、大金をかけて業者に処理してもらうのが関の山だ。
手に負えなくなった後で、買ったことを後悔する人もいると思う。
こうしたトラブルを避けるためにも、我々はモノを買うとき、行動を起こすときに終わりを意識しなければならない。
モノの終わりを意識する
利便性の罠ービニール傘ー
ビニール傘は日本で最も人々の生活を助けている便利グッズと言っても過言ではない。
しかし、たくさん持っていても困る。
ビニール傘は使ってもなくならないが、壊れれば捨てる必要が出てくる。
壊れていなくても、たくさん持っていれば玄関を圧迫する。
ビニールと金属(またはプラスチック)で構成されたビニール傘は間違いなく燃えないゴミだが、長くて持ち運びづらいし、いつか使うかもしれないという想いがそれらをゴミ袋から遠ざける。
500円程度の救いの手は、それを大切にしたいという想いとは裏腹に増え続ける。
言い換えれば、ビニール傘は利便性ゆえに捨てづらいのだ。
だから、我々はなるべく傘を買うのを我慢して濡れた方がいい。
必要だと思ってその都度買ってしまうとどんどん溜まる。
予報をしっかり確認して傘を持っていったり、小雨や近所であれば我慢して濡れて帰ったりするなど、負債の削減に努めるべきだ。
必要性の罠ー買ったけど使わなかったモノー
参考書など、必要性に駆られて買ったはいいものの、実際には使わなかったものはないだろうか?
あるいは、調味料など、使うと思って買ったのに実際には1回しか使わなかったモノはないだろうか?
特定の状況において必要なモノは、必要ではなくなったときに捨てられないゴミになる可能性が高い。
筆者の場合は、カレー粉を使ったあるレシピに一時期ハマっていて、そのために買ったカレー粉が今、賞味期限切れになっていた。
あるいは、家にないと思って買った食材が、本当はあったということもたまにある。
食材の管理を徹底していなかった私が悪いのだが、必要のない材料を買うことはもったいないだけではなく、お金の無駄でもある。
買った食材は責任を持って腐らせずに使うことを意識しなければならない。
そうしないと、調味料であれば300円以上を無駄にすることになる。
これは食材以外にも言えることで、用途が限られるニッチなモノを買ってしまうと、後で使えなくなってゴミになる。
買ったモノは責任を持って使うこと、ニッチなモノは買わないこと、この2つを意識しよう。
人生の終わりを意識する
世の中にはペットや子どものように捨てることが禁止されているものも存在する。
こうした存在は責任を持って育てなければならない。
しかしながら、責任を持って育てるという概念にはある重要な視点が抜けている。
それは、親や飼い主はいつかは死ぬということだ。
現代は高齢化のため、ヒトは長生きするというのが常識になっており、ペットの方が早死にするという前提がある。
だが、老後に飼い始める飼い主の場合、話は別だ。
ペットを残して世を去ったら、取り残されたペットはどうなるだろうか?
同様に、適齢期を逸脱して子どもを産むことは、子どもが自立していくときのことを想定できていない自分本位の行為だ。
命の誕生という短期的なゴールばかり見つめていて、子どもが自立するまでのことなどを想定できていない。
それに、早期に介護離職することだって考えられる。
子やペットを持つとき、自分の人生の終わりを意識することは重要である。
感動ポルノと責任逃れ
子どもへの負担を「健気」で片付けるのは責任逃れだ。
高校時代、生活費が足りなくて、部活に入らずにバイトをしなければならない子ども。
親が定年になってお金が出せないので、夢へのステップを歩めない子ども。
彼らの不幸は美化すべきではない。彼らは親のために夢を諦めるのではなくて、親のせいで夢を諦めるのだ。
生まれた環境のせいで夢を諦めなければならないのは、家族の連帯責任ではない。
たとえ政府のせいだったとしても、金銭的な補償には限界がある。
高齢での妊娠は、子どもが自立するまでのことを想定すべきだ。
高齢出産に成功してそこで終わりではなく、立派な社会人を輩出してそこで初めてゴールなのである。
人生の終わりにペットはどうなるか
ちなみに、ペットについては、生きている限り自立できない。
野に放せば、周囲の動物や作物を食い荒らす可能性もある。
飼い主が死ねば、餌がなくなるので生きていけなくなる。
飼い主の急死したペットが、誰もいない家の中で鳴いているというケースもあるようだ。
忠犬ハチ公のような美談もある。
だが、実態は、飼い主の死んだペットは餌がなくなって死ぬか、見つかっても保健所に預けられ殺処分されることになる。
最近はそれを引き取る保護団体もある。
でも、基本的には、死を予見できるならばペットを保護団体等に預けた方がいいだろう。
新しい飼い主が見つかることもあるようだ。
高齢者施設や病院などでは、アニマルセラピーをやっているところもあるそうなので、動物が好きだという方はそちらを利用するのもよいと思う。
最後まで責任を
見てきたように、終わりを意識することは重要である。
ゴミになるなら買わない方がマシという人もいるが、買わないで後悔するなら買った方がいいという人もいる。
しかし、買ったら買ったで捨てられず、ゴミにすらならないものもある。
一方で、命あるものは捨ててはならず、最後まで面倒を見なければならない。
これには自分の最期という視点が重要で、老後や死んだ後に自分の子どもやペットがどうなるかを考えて産んだり購入したりする必要がある。
モノを買うとき、特に複雑な構造も持っているモノ、サイズの大きなモノを買うときに自分に問うてほしい。
「それって本当に必要?」
子どもを持ったり、ペットを飼ったりするとき、将来自分が死ぬ、あるいは介護が必要になる可能性を考慮して、自分に問うてほしい。
「責任を持って育てられるの?」