異文化と異なる価値観を知る
同じ文化はひとつとして無い
同じ文化や価値観の中にたくさんの人がいるという時代はとうに終わった。
グローバル化によって、人・モノ・情報の移動が活発になった上、産業の空洞化によって、地方に住んでいた人が都市へ移動してしまった。
もはや、同じ地域に住んでいるからといって、同じ文化・同じ価値観を持っているとは言えない。
例えば、「青森県生まれだから青森県民らしく振舞う」「福岡県生まれだから福岡県民らしく生きる」ということがなくなってきている。
つまり、文化が帰属集団に対して1つに絞られなくなったのだ。
もちろん、ヒトの移動によって帰属集団としての集落が解散すれば、集落の中で通用していた文化やルールも意味をなさなくなる。
結果として、全く同じ文化を共有するのは一族だけ、1世帯だけ、ひいてはひとりだけになっていく。
生きやすさを重視するように
帰属集団というと硬いイメージがあるので、もっと柔らかい例を出そう。
ある人はお好み焼きを白いご飯と一緒に食べることを好まない。
しかし、その人が帰属する集団の多くの人はお好み焼きを白いご飯と一緒に食べることを好む。
その場合、お好み焼きを白いご飯と一緒に食べないと、奇異な目で見られたり、集団から疎外されたりする恐れがある。
かつてはこのようなときに、文化や価値観の違う側が合わせていくのが普通だった。
しかし、集落や家父長制が崩壊すると、文化や価値観に優劣がつかなくなっていく。
特に都市では近所の人との交流は少ないので、自分たちの文化や価値観を比べていくことは減っていった。
つまるところ、人は生きやすい文化や価値観を貫くようになったのだ。
生きやすさは衝突する
ただし、誰もが他人の生きやすさを認めてくれるわけではない。
文化・価値観というラベルがなくなってもなお、多数派と少数派という対立軸は未だ存在している。
したがって、大多数と違う価値観を持つ少数派が多数派によって傷つけられ、虐げられることは残念ながらなくなっていない。
多数派と違う少数派の事情が「わがまま」扱いされることもある。
中には言論の自由・表現の自由を盾にして抑圧的な発言・表現をしている人もおり、そうした人々への糾弾は「ポリコレ」として断罪されている。
しかし、そこに生きやすさという視点を持ち込めば、多数派の中にいる理解のない人にも「配慮」の大切さがわかってもらえるはずだ。
「文化」や「価値観」という言葉を出すと、どうしても全く違う他者の存在が想定されるが、現実には目玉焼きにかける調味料に関する議論など、身近な他者間で発生する対立もある。
正直なところ、目玉焼きにケチャップをかけただけで職場を解雇されたらたまったものではない。
いずれにしても、生きやすさを巡る対立を解消するには、異文化や異なる価値観の存在を多くの人に理解してもらわなければならない。
生きづらくなる世界
生きやすさの定義=生きづらさ
生きやすさが重視される時代における最大の敵は、生きやすさを定義する人やメディアの存在である。
お好み焼きをご飯と一緒に食べることが幸せであると声高々に叫ぶ人が現れると、お好み焼きをご飯と一緒に食べることを幸せと思わない人が生きづらくなってしまう。
お好み焼きをご飯と一緒に食べることが正統とされ、そうしない人は異端視されるのだ。
「定義」するというのは、こうあるべきだという義務の押し付けというよりも、当然のごとく正しいと想定されているといった方が適切かもしれない。
例えば、「みんなで食べるとおいしいね」というキャッチフレーズは、みんなで食べるとおいしくない人、ひとりで食べたい人にとって苦痛だ。
発信者は全員がそう思うと想定して発信している*1が、実際にはそうは思わない人も多い。
そうしたキャッチフレーズがメディアに乗って常識化されると、みんなで食べることが生きやすさだという想定が皆に定着する。
結果として、生きづらい人が増えてしまう。
このように、メディアが生きやすさを決めつけてしまうと、生きづらい人が出てくる。
メディアや社会に責任を持つ個人が人の気持ちや人のあり方にまで踏み入ることは、たとえそれがひとつの考え方の提示であっても、抑圧になってしまうだろう。
生きやすさの押し付け=生きづらさ
もうひとつ心配しなければならないのは、広く提唱された生きやすさを実行しなかった場合に懲罰する人の存在だ。
それは会社や学校だけではなく、日常やネットの中などにもいる。
卑近な例でいえば、車を買う予定がないという若者に対し、車のある暮らしが快適だと思っていた上の世代が「若者の車離れだ」と嘆くことが近いかもしれない。
都市の若者であれば電車やバスで事足りるし、必要ならばレンタカーやカーシェアリングがある。
それを、今の若者が負け犬であるかのような言い方でなじられるのには違和感がある。
つまり、ある対象に対して自分の信じる生きやすさを押し付ける行為は、その対象に生きづらさを感じさせるのだ。
同様に、女性が結婚した際に、職場で不当な待遇を受けるという話も聞く。
「女性は結婚したら家庭に入るべき」という考えから退職を迫られるなどがその一例だ。
この場合も、自分の考える生きやすさを相手に押し付けている。
そうした女性への不当な待遇絡みのニュースや相談がネットに載った場合には、残念ながら(女性を含む)多くの人がその女性へのバッシングを始める。
その過程で、女性があたかも特別な待遇を求めているワガママな人かのように解釈されてしまう。
生きづらさに反抗するだけで罰を受けるというのは、なんとも辛いことである。
息苦しさ=生きづらさ
ここで、価値判断の対象者でなくても生きづらくなるということを示しておかなければならない。
つまり、自分が生きやすさを定義されている対象でなくても、生きづらいと思ってしまう場合もあるのだ。
例えば、祖父母などの意向により、親族の女性だけが炊事をさせられているといった状況下で、男性は快適に暮らせるだろうか?
少なくともある種の気まずさがあり、万全の快適さとはいえない。
この場合は、「女性は家事を(して男性に奉仕)するのが生きやすい」という価値判断があったと考えられる。
たしかに、この判断の対象は女性である。
しかし、それを生きやすさと考えない男性にとっても、気まずい雰囲気はあるはずで、生きづらくなっている可能性がある。
このように、他人への生きやすさの定義や強要が間接的に自分の生きづらさにつながることがある。
他人の生きやすさを害すること
自分の生きやすさが害される場合、他人の生きやすさを奪うことは許されるだろうか?
これはありえない話だが、「私にとってはお好み焼きを白いご飯と一緒に食べることが生きやすさなので、生きやすさを害されないためにも、あなたにお好み焼きを白いご飯と一緒に食べて欲しい」と強要してくる人がいたとする。
なるほど、その人にとっての生きやすさを尊重することは良いことだ。
だが、他人の生きやすさを害してまで、自分の生きやすさを貫いてよいのだろうか?
前述の押し付けと少々異なるのは、生きやすさが害されるという前提である。
若者が車に乗らなくても、結婚しなくても、ギャンブルしなくても、上の世代の生きやすさが害されることはない。
しかし、この場合は、ある文化・価値観のせいで別の文化・価値観を持つ人が生きづらくなるということを想定している。
このような状況下においては、その想定を崩し、自分(または仲間)の生きやすさを相手に知らせることが重要だ。
自分の生きやすさが他人の生きづらさにならないことの証明
価値観における紛争を解決するには、互いの利害が対立関係にないことを証明する必要がある。
例えば、犬が苦手な客もいるという理由で、盲導犬ユーザーが入店を拒否されるケースがある。
盲導犬ユーザーの入店拒否は基本的に法律で禁止されていて、店の自由にできない(身体障害者補助犬法第九条)。
しかし、犬が苦手という客も当然いるわけで、心苦しいところだ。
そんなとき、盲導犬ユーザーと犬が苦手な人の席を遠ざける、盲導犬を店の外に待機させるなどの対処法がある*2。
これにより、周りに犬が苦手な人がいても、盲導犬を連れた人は店に入ることができる。
このように、自分の生きやすさが他人の生きづらさにならないことを説明していくことで、利害対立を解消していくことができる。
お好み焼きとご飯の例であれば、宗教上のタブーでもないし、それが誰かに多大な苦痛を与えるというわけでもない。
自分の分のご飯を用意しないなどの対応を取ってもらうことで、ご飯を食べないことによる損害は発生しないだろう。
生きやすさの説明
周りに生きやすさの内容をわからせることも、時には必要だ。
例えば、日本においては発達障害・学習障害への理解はまだ進んでいるとはいえない。
そのため、当事者は「バカ」や「ノロマ」などの暴言や偏見に晒されることになる。
それだけにとどまらず、重病患者・身体障害者は「対応が難しそう」などの理由で入学を拒否されるケースがある。
これらの人々が生きづらいのは、障害や病気があるというだけが理由ではない。
否定的な判断を下す人がいなければ、存在を拒否されることもないはずである。
もちろん、全てを知っての上で否定的な判断を下すのであれば問題ないのだが、現状はそうはいかないだろう*3。
一方で、肯定的な判断を下す人もまた、全てを知っているわけではない。
つまり、問題は人々がそうした属性の人々のことを全く知らないで評価していることにある。
イメージだけで語らないこと
何も知らないで肯定的な判断を下すことに異議を唱える理由は明確だ。
何も知らない人は背景を考えないで肯定的な判断を下してしまう。
ここで、以前話題になった中高生への進路アンケートについて触れたい。
このアンケートは生命保険会社が中高生にとったものである。
調査の結果、男子中学生の将来なりたい職業トップ3がITエンジニア・ゲームクリエイター・YouTuberになってしまった。
調査対象の中学生は100人こっきりとはいえ、ネットではアンケート結果に対して辛辣な意見が相次いだ。
IT業界は待遇がよくないことで知られており、彼らは茨の道・針の山を目指していることになる。
ここで言いたいのは、現実とイメージは乖離していることが多いということだ。
「佐藤さんちのお子さん、パティシエだなんて毎日スイーツが食べられて幸せねー」と言っている間にも、佐藤さんちのお子さんは苦しんでいるかもしれない。
夢のある職業は、現実には夢がない可能性が高いことは知っておくべきだ。
いずれにしても、肯定しているからといって、それが相手の生きやすさにつながるとは限らないということは肝に銘じなければならない。
そして、肯定・否定にかかわらず、評価をするときは相手について知っておいた方が身のためだ。イメージだけで語るのは危険である。
相手とは違う生きやすさを持つ自分を受け入れてもらうには、相手に生きやすさを説明することが求められる。
口頭での説明が難しければ、代理人を立てるのもよいだろう。
お好み焼きの例で言えば、白いご飯と一緒に食べないとはどういうことかを説明することで、誤解や偏見を払拭できる可能性がある。
お好み焼きだけで十分であり、主食を用意する必要はないことを伝えれば、自分が面倒臭い人ではないことがわかってもらえるはずだ。
生きづらさに気づこう
生きづらさを巡るトラブルの解決には、自分と異なる他者を理解することが一番だ。
例えば、相手にとっての生きやすさを決めつけ、押し付けることは相手の生きづらさに繋がる。
それから、自分と相手で価値観の衝突が起こるというのは幻想である可能性がある。
相手にとっての生きやすさが自分にとって生きづらいというのは思い込みかもしれない。
そもそも、自分の文化や価値観は相手に教えない限り、確実な理解を得られない。
肯定するにしろ、否定するにしろ、事情を知らなければ的確な判断はできないはずだ。
ところで、多様性というと、特殊な状況にある人が社会に包摂されている状態を指すように思われがちだが、そうではない。
人それぞれにそれぞれのあり方があるはずで、それがたくさんある状態を多様性と呼ぶ。
ということは、この記事を読んでいるあなたにも何らかの生きやすさがある。
それに気付かされるのは、その対極にある概念、すなわち生きづらさを感じたときに他ならない。
自分が生活の中で不快感を感じたこと、その中にこそ人間同士が分かり合うためのヒントが隠されているのではないだろうか?
*1:そうしたキャッチフレーズに「人類」「女」などの主語を補うと、いかに抑圧的かがわかる。
*2:盲導犬ユーザーの受け入れについて - 公益財団法人 関西盲導犬協会
ただし、一緒に居させるべきとか、足元で待機するので怖くないとする団体もあるので、一概にこの対応がよいとはいえず、この対応が絶対というわけでもない。
*3:以前の記事で触れたが、全てのことには程度がある。黒帯に段位があるように、障害や病気も重さや内容に違いがある。したがって、障害や病気の当事者が別の当事者を理解できるとは限らない。だからと言って、「当事者のことを理解できないのだから、知ってもらう必要はない」というのは愚かである。誤解を生まないためにも、知ってもらうための努力は必要だ。