本当の気持ちを言ってはいけないのか
自民党の竹下亘総務会長が、国賓(こくひん)の同性パートナーは宮中晩さん会に出席すべきではないという趣旨の発言をし、問題になっている。
今回の場合、多様性を認めないことが国益に著しく反するということもあったのだろう。
竹下氏は与党自民党の中でも有力な議員だっただけに、非常に大きな懸念が広がった。
一方で、最近は自由に発言できず世知辛い世の中になったという声も、最近よく聞かれる。
だが、残念ながら、多様性が尊重され、ネット社会でもある現代においては、認識を改めなければならないようだ。
この記事では、どのように考え、どのように発言すればよいのかを考えたい。
何が悪かったのか
「思う分には悪」い
よく「思う分には悪くない」というが、政治家や経済界のトップともなれば、そうはいかない。
思っているとわかっただけでイメージダウンにつながる恐れがある。
与党の総務会長レベルの有力者ともなれば、日本全体のイメージダウンになりかねない。
それに加え、政治家はできるだけ平等な立場にある必要がある。そうでなければ、国レベルで差別が促進されてしまう。
例えば、オタクは悪だと考える議員が集まった場合、子どもを守る名目で、オタクを規制する法律を作るかもしれない。
でも、現代においてはアニメグッズを集めるのは普通のことだし、アニメが好きだからといって、子どもに害を与えるとは限らない。
そのような古い考えや思い込みで政策を作ってしまうと、理不尽で効果のない規制をすることにもつながる。
そうした愚策が多くの人に不便を強いたり、苦痛を与えたりすることもある。
特に、誰かを指揮する立場にある人は、日々新しい考え方を吸収して、マインドセットを改めなければならない。
根拠がでたらめだった
今回、もうひとつ問題があるとすれば、根拠をでっち上げたことだ。
同性愛はこの国の伝統にそぐわないとのことだが、実際にはこの国には男色の文化があった。
事実とは異なる根拠を掲げたことで、主張のわがままさが露呈してしまった。
昔は、もっともらしい理由づけをすれば、国民を信じ込ませられただろう。
だが、インターネットがある今では、発言がニュースになった直後から批判がくる。ウソやでたらめはいわないのが賢明だ。
精度の低い比較
「AがBだったから、CもDであるべき」という論法は、気をつけて使わなければならない。精度が低いと、ただの言い訳にしかならなくなる。
今回は、オランド仏大統領が事実婚の女性のパートナーと共に宮中晩餐会に来日した際、宮内庁が苦慮したという話から始まっている。
この話から、同性パートナーだった場合の話に移行したのだと思われる。
話の流れから察するに、この話の趣旨は(伝統を重んじる)宮内庁が苦慮するだろうから、同性のパートナーの出席は認めるべきではないということだろう。
でも、この論法では、あたかも宮内庁が同性愛・同性婚に慎重であるかのように思われてしまう。実際にそうした意向があったとは確認できない。
もちろん、事実婚と同性婚はどちらも、従来の法制度や倫理にとらわれない多様な愛の形のひとつだ。
だから、事実婚の異性パートナーの招待は、同性のパートナーの招待に関する議論の根拠としては使うことが難しい。また、宮内庁が難色を示すと類推できるとは思えない。
同じことは、失態の後の弁明でも言える。
子どもが「お母さんが僕をたたいていたから、僕もよしこちゃんをたたいてよいと思った」と主張したら、首を縦に振れるだろうか?
同じたたくという行為の中にも複数の意味があり、お母さんのしつけと子どもの暴力は同列に扱えるものではない。
(そもそも、私はしつけとして子どもをたたくことには反対だ。ここでは、例として使っただけである。)
このように、性質の異なるものを同列に扱って、理由とすることは、言い訳にしかならない。
発言の際のポイント
最近ニュースに上がる失言や愚策では、発言者が的を射た意見だと思い込んでいることも少なくない。
仮想敵を設定してたたく行為も批判を浴びやすいので、穏当な発言を心がけたい。
そこで、私なりにそうした発言をする際の注意事項をまとめてみた。
問題を構造として捉える
まず、問題を構造として捉えることで、より適切に立案し、対処できるようになる。
それは、誰かが悪者にされるのを防ぐことにつながり、理不尽な扱いを受ける人も減る。
例えば、少子化は子どもを産みたがらない女性が悪いと結論づけるのではなく、なぜ女性がそう思うのか、あるいは何が根底にあるのかを考えるべきだ。
たしかに、明確な悪と正義の二項対立を作ったほうがショーとしてはわかりやすいと思う。
しかし、悪者を懲らしめたところで、問題は解決しないだろう。
悪者への攻撃は何も生まない
これは、弱者を悪者にするのはかわいそうだから、別のものを悪者にしようということではない。
諸悪の根源を一点に限定して攻撃すれば、誰を攻撃するにしても根本的解決には至らない。
たしかに、害虫は巣から現れる。だが、一度害虫の巣を駆除しても、もう一度害虫が湧く可能性は排除できない。
だから、あらゆる方法で害虫が発生しないよう、駆除できるよう、対策を講じなければいけない。
一方で、虫全部を駆除すべきなのかといえば、そうではない。
中には人間に利益をもたらす益虫もいるわけで、害虫と違う存在として認めることが必要だ。
ヒーローものでよくある展開だが、悪者扱いされている存在が、実は世界を救うヒーローだったということもありうる。
軽率に悪者認定しないことが大切である。
謝罪のポイント
「差別の意図はなかった」は火に油
「差別するつもりではなかった」は、弁明というよりも、むしろ本人の無知や差別意識を強調する言葉である。
特に、「区別」は差別の言い訳として有名だ。本人が「区別」のつもりでいったことが、実際には差別になっていることも少なくない。
例を挙げるとすれば、黒人と白人のトイレの「区別」は、現実には黒人を隔離するための差別になっていた。
あるいは、イスラム教の戒律を学校のルールと「区別」(ウチはウチ、ソトはソト)して、校内での礼拝や弁当の持参を認めないことも、差別に当たるかもしれない。
結果として、「差別の意図はなかった(=区別のつもりだった)」は「差別する気満々だった」という意味になってしまい、むしろ炎上を加速させることにつながる。
指摘されたらすぐ謝罪と反省の弁を
謝罪が火に油を注いでしまうケースでは、自分を正当化しようとして、かえって自分の醜悪さを強調してしまうことが多い。
「誤解を招いたのであれば申し訳ない」という弁明も、「自分の言いたいことは正しいが、間違って解釈されてしまった」ということを前提としている。
でも、炎上したということは、多くの人の価値観において、その発言が間違っているということだ。
その場合、全面的に間違いを認め、謝ってから、名誉の回復を待つしかない*2。
最近、民放のテレビ番組で、撮影地の法令に反するシーンがあったとして、該当する国で撮影された全ての回を公開中止にしたことが話題になっている。
これは炎上対策としては100点満点で、むしろ、同情の声や全部の公開中止はやりすぎだという意見もネット上にあるようだ。
同じ失態でも、早急に謝るのと自分は悪くないと開き直るのでは、名誉の回復の早さが違う。失言をした人は早めに、全面的に謝ることが重要だ。
他にも炎上案件が
ここ数日で、別の政治家の失言が問題になったほか、大手化粧品店が特定の民族を出入り禁止にしたことも物議を醸している。
高い地位にある人や、外に対して強い責任を持っている人は、偏見や思い込みを排除して発言をするべきだ。