それでもおうちの方と呼ぶ:気をつけるべき言葉
「LGBTに配慮してお父さん・お母さんという表現を使わない」とする千葉市のガイドラインが話題になっている。
実際には、性の多様性に配慮した言動を含む指針の中に、お父さん・お母さんに関するものが含まれているということらしい。
これについて、案の定「言葉狩りだ」という指摘が相次いだ。
結構昔からそうなっている
実際のところ、私は子どもの頃から「おうちの方」「保護者」表記の書類や本に触れてきた。
学校の配布物なども「父母」「父兄」表記はほとんどなかった。
あるとすれば、大学の卒業式の掲示に「父母はこちらへお進みください」と書いてあったことぐらいだ。
でも、中等教育以前では、そうした言葉は学校でほとんど耳にしなかった。
今こそお父さん・お母さん呼びをやめよう
正直なところ、保護責任者を指して「お父さん」「お母さん」と分けて呼ぶ表現はやめるべきだと、私は考える。
両親のどちらかが、あるいは両方がいない人も多いはずだ。
それに、父親・母親の役割は多様化し、両者がほとんど同じ役割を担っている家庭もある。
「おうちの方」や「保護者」のように、すべての保護責任者を含めた呼び方にすべきではないだろうか?
お父さん・お母さんの役割の変化
もはや、保護者の役割をお父さん・お母さんという言葉で説明することはできない。
父が外で働き、母が家で働くというステレオタイプはすでに崩壊している。
出産後も夫婦共働きという人は多い。
母親が大きな仕事をしている家庭では、専業主夫の人もいるかもしれない。
ひとり親家庭では、親がひとりで家事と賃労働をしている。
そして、親がおらず、里親や養親の家、あるいは児童養護施設で暮らしている子どももいる。
世の中は、従来のステレオタイプ的な家庭だけではなくなっているのだ。
性別役割分業が崩壊し、ひとり親家庭が顕在化した。
もはや、お父さん・お母さんという言葉で親の役割を定義することはできない。
性別破壊?
「お父さん・お母さんという呼び方はやめて、おうちの方と呼ぼう。」
こういうことを言うと、「父親らしさ・母親らしさが失われる。性別破壊だ」という反論が出てくる。
だが、私は父親であること・母親であることをやめろとは一言も言っていない。
そうしたいのであれば従来通り、お母さんが料理をしても、お父さんが息子とキャッチボールをしてもよいと思う。
押し付けられる規範
問題は、その役割が担えないおうちの方とその子どもがいることだ。
「お母さんに縫ってもらいなさい」
「お父さんの仕事について作文を書きなさい」
というように、ある役割を「片方の親」に限定すると、不便を感じる子どもやおうちの方がいる。
家事や賃労働は性別によって規定された役割ではない。
おうちの方のどちらかを指定する必要はないはずだ。
従来のステレオタイプと違う環境にある子どもやおうちの方に、そうした規範を押し付けてはいけない。
父の日・母の日を祝わない保育園
最近では、保育園で父の日・母の日を祝わないところがあるそうだ。
だからと言って、「家庭で母の日・父の日を祝ってはいけません」というわけではない。
お父さん・お母さんがいる人は、父の日・母の日を祝ってもよい。
でも、お父さん・お母さんがいない人に父の日・母の日を祝わせるのはあまりに酷だ。
親がいない子どもにお父さん・お母さんの概念を押し付けないようにするというのが、「おうちの方」のコンセプトである。
お父さんらしさ・お母さんらしさを捨てろという話ではない。
親の役割を決め付けないことが重要だ。
誰が子どもを守る?
夫婦共働きへの批判の最たる例が、誰が子どもを世話するのかという話だ。
答えは地域社会である。
地域社会が食事を作る
例えば、子どもが放課後に塾に行く場合、夕食の弁当を作って持たせるという人もいると思う。
共働きではそのような弁当を作るのが難しい。
あるNPO法人ではそういう人の子どものために、手作りの仕出し弁当を提供している*1。
それから、家庭料理を食べるのが難しい子どもに向けて、有志が料理を提供する試み・子ども食堂もすっかり有名になった。
最近では、そうした取り組みが朝食にも広がっているとのこと*2。
働く女性にしわ寄せが
一部には、共働きなのに女性に家事の責任が押し付けられるというケースもあるらしい。
地域が子育てを担うことは、そうした女性の負担をなくすことにもつながりそうだ。
もちろん、よほど忙しい家庭でない限りは、おうちの方が分担して家事をするのが最善である。
地域社会が子どもの世話をすればよい。
共働き家庭の女性に家事・育児の責任が押し付けられるというのは避けるべきだ。
該当者だけが置き換えればよい?
「普通の家庭」の人は関係ないのだから、該当者だけ頭の中で置き換えればよいのではないかという反論もあるだろう。
それは難しい。
なぜなら、お父さん・お母さん呼びにすることで不快感やショックを生む可能性が高い。
「お母さんがいないから困る」のではなく、お母さんとの死別を思い出してしまう子どももいるはずだ。
「対象ではない」疎外感
不快感というのは「ムカつく」ことだけではない。
自分は対象に含まれていないという疎外感を与える可能性がある。
子どもを連れたおうちの方を対象とした「ママ◯◯」というサービスは、パパやシングルファザーが対象外であるかのような錯覚を与える。もしくは実際にパパが対象外だ。
「パパと一緒に◯◯」なども、パパのいない子どもは参加しづらい。
そういう人たちを社会に包摂していくためにも、性別を問わない表現は必要である。
女の兄弟?
余談だが、先日、ソーシャルメディア上で違和感のある表現に出会った。
「譲くんと桜ちゃんは兄弟だ。」
この表現は明らかにおかしい。なぜなら、「桜ちゃん」は弟ではない。
本来は「兄妹」と表記すべきなのだが、一部では「兄弟」表記がまかり通っているようだ。
読む側も違和感があるが、そう書かれる側もいい気分ではないだろう。
読み替えろ・置き換えろということはそれほど難しいことなのである。
こういう場合も、男女共通の「きょうだい」という書き方をすればよいのだが。
性別役割分業を前提とした文言は社会全体で変えていくべきだ。
親の性別が指定されたサービスを使えないなどの経済的な不利益もある。
言葉に気をつけよう
私たちは意外と言葉に無関心なので、気をつけなければならない。
その表現はルール違反だから怒られるのではなく、確実に誰かを傷つけている。
「お父さん」「お母さん」に限らず、「スチュワーデス」や「看護婦」も避けるべき表現になっている。
カナダでは、国歌の「汝の息子すべて」という歌詞が「われわれのすべて」に置き換えられたそうだ*3。
今や国歌の歌詞にまで、実態にあったジェンダー表現が求められている。
そうすることで、なるべく多くの人が心地よく過ごせる社会になることを願う。